シンプルに生きる

ミニマリストに憧れて、近くなったり遠くなったり日々もぞもぞと活動している人のブログです。



執着するということ

昨日の夜、旦那さんが面白い話を聞かせてくれました。

須藤元気さんの本を読んだらしく、

そこに書いてあった内容を教えてくれました。

正確ではないと思いますが、話の趣旨は違わないと思います。

 

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二人の修行僧がおりました。

仮にカボチャとレンコンとします。(名前は私がつけました)

カボチャとレンコンは師匠のニンニクに「女に触るな」ときつく言われています。

 

そして二人が修行の旅に出ている途中、

荒野の真ん中で女性が足から血を流して倒れていました。

女性は歩けず、そのまま放っておくと死んでしまうが、

おぶって町まで連れて行けばおそらく助かるだろうと思われます。

 

そこで二人はどうしたかというと…

カボチャは「女に触るなとニンニク師匠に言われているんだから放っておかねばなるまい」と言いますが

レンコンはそんなことはお構いなしに女性をおぶって町まで連れて行ってしまいました。

 

町で女性と別れたあとカボチャは、レンコンに「お前は女に触ったな!これは許されないぞ!」と言いました。

するとレンコンは「僕の中にはもう女はいないが、君の中にはまだいるんだな」と言いました。

 

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というお話です。

(わかりやすくなるよう名前つけたんですが、逆効果だったかな…。)

 

要は「女」というものにいつまでも執着しているカボチャと「女」というものにもう執着していないレンコンの話、ということになるかと思います。

 

この話を聞いて、先日話題になっていたミニマリストのことを思い出したのです。

「持たない暮らし」をするミニマリストのことがテレビで紹介されていたようで、それを見た人の感想に「もの自身に執着はしてないかもしれないけど、「ものを持たない」という思想に執着しているように見える」というものがありました。

 

私もそれに納得してしまったのです。

この感想を言った人は「持つ暮らし」をしている自分を正当化しているのかもしれませんが、(実際私にそういう気持ちが少しあるので)ものに対する執着を捨てるという思想に執着してしまっては本末転倒だなと思いました。執着の種類が変わっただけで、脳が何かに囚われている状態は変わっていない。

私がもしミニマリストになったとき、自分の元に流れてくるものに対して煩わしく思ったりしてしまうのではないかと思います。

私も極力、ものは増やしたくないと思っていますが、放っておいても郵便受けには色々と郵便やらダイレクトメールが入ってくるし、お祝いをするとお返しをもらったりと色々と自然に増えていくことがある。

そのときに煩わしく思うことこそ、未だものに執着している状態ではないかと考えました。煩わしく思わず、そのまま受け入れるのが正しい姿勢なのではないかと思いました。

 

来る物拒まず去る物追わずという感じでしょうか。流れて入ってくるものについては拒まず受け入れる。そして勝手に去っていくものについては引き止めずそのまま去っていくままにする。

 

でも「女」と違って、「物」って勝手に去っていかないな。どうしたらいいんだろう?

必要ないなと思えば捨てればいいのかな?もしかして今後必要になるかもしれない…ということは考えず、今現在の暮らしに必要ないと思えば捨てるという感じかな。

と、すれば、超お気に入りのマグカップが割れたら困るからという理由で買ってある同じデザインのマグカップは捨てねばならないということか?

 

ああああ そんなのできない〜!

いや、そういうことをいちいち考えるということが執着してるってこと?

 

むむむ。